昭和45年11月19日 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真が無ければ、人は助か らぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。 此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」
真がなければ人は助からぬ。だから、学問がある、その上に真が有れば、いわば鬼に金棒ですね。ところが学問と云うのは、何処までも人間がいわば作ったもの。ですから学問の範囲でものを見たり考えたりするから、いわば学がかえって身を食うと云うことになるのです。ですからむしろ、学問が無い方が、真実の生き方と云うか、例えば人間の小さい尺度でものを計ったり、思うたりする事が無い。
いわゆるまあ常識が無くても、云うならば非常識であっても、その非常識が常識以上のいわば超常識に通ずる訳であります。学問で収めた、会得した常識。それはそこ迄の事。そんな事があるもんかと、例えば奇跡的なおかげなどで、そういう風に申しますけれども。ところが事実、その学問やら、いわば医学とか科学とかと云う様な、最高の学問をしてもどうにも出来ない事柄が、ただ目を見張るような奇跡になって現れて来る場合が、信心の上ではあるという事。
ですからね、結局、金光様の御信心はね、真実に生き抜くことなんです。もう真実をほんとに追求し抜くことなんです。いわゆる真を神様に貫き、又は社会に真を貫き通されたのが、私は教祖の神様の生きられ方であったと思いますね。神様にだけは真を貫くけれども、社会に於いては真を貫かないと云った様なものではなくて。神様に真を貫かれると同時に、自分の生活の中にも真を貫かれた。
例えば、お百姓して居られる。今年はよくお米が予想外に取れたという時等は、やはりお上に対するその上納というものは、もう決まりよりも沢山上納を納められたと云った様な事実なんです。だからそれを周囲から見たら、馬鹿のようなことであろうとこう思いますね。勿論、神様には実意を立てる、貫き通された訳ですね。人間の浅ぁい考えでね、神様をうんぬんすることは出来ません。
そこで神様は私共に何時も、真実を求め給うて居られるのです。昨夜も、私共が休んだのは、もう一時過ぎでしたでしょうか。それがそんな話に勿論なっとりましたら、もうそんな時間が経っとりました。私と秋永先生と文雄先生と、それから高橋さんと繁雄さんとでしたか。そんな話をさせて頂いておりました。秋永先生が、最近、自分が追突してはならない所で追突して、相手の方の車を少し痛めたと。
その人がまぁどうか具合いが悪いとかなんとかと言うて、普通はもうどうもして居られんとに、もう警察に行かんならん時とか、自分が行く時は、もうこう何か填めてから、こげんひどかつですよと言わんばかりにしとられると云う話からでした。そげんせにゃ金が取られん。例えて言うとですね。そういうね、時代だと云う訳です。だから金光様の御信心させて頂く者までが、そういう事になったんでは、もう真実から遠く離れてしもうて、真実のおかげが受けられんようになります。
これは文雄先生の、或意味では独壇場ですけども、先生の話を聞きよると、何時もその真実がそこにあるですねぇ。昨日も、あの人が自動車に乗るようになって、十何年になりますでしょうか。初めて自動車に乗らせて頂く時に、神様にお誓いさせて頂いたことは、もし私が人に怪我をさせたり、車をそだしたりした時には、もう絶対、これは私が責任を持って致します。
けれども、もし私がです、人にまぁ言うなら怪我させられたり、又は車を痛められても、決してこれは私の物ですから、人には迷惑かけませんという事を神様へ誓うとるという事。私はもうそれを聞かせて頂いて、素晴らしかねて思いましたと言うたことでしたけど。これはね、あんたが信心だから誰にでもそれば言いよると、ほう、金光様の信心さして頂きよると、人から怪我させられたっちゃ、人から車を痛められたっちゃ金も取られんごとあるなら、私段、参らんと云う人が沢山有るだろうと思うですね。
けどもそれが真実なんですよ、実は。 例えば、自分が痛い思いをしなければならない、損をしなければならないと言うことはね、あの人がああしたから損しなければならないのであったり、痛められたりするじゃ決してない。痛められなければならない元はこっちにあるんだと云う頂き方、これが真実です。絶対の真実です、これは。
ですからお加護を頂いて車に乗らせて頂いて、おかげを頂いて居るが、まだかつてそういう、ほんなら、事故を、成程、痛められたことはありますよね、こちらの車がぶちゃげてしまう様なことがあったけれども、それを人に一つも求めていない。私はね、有難いなぁと思わせて、その時はそげん分からなかったけども、その時にあのこの頃新聞に、何とか総一郎さんと、私と同じ名前の人の家がですね。
所謂明治の初期に出来た立派なお家らしいです。それがなんか国家が保存をすると云った様な、あのう事を新聞に見出しだけでしたけれども出ておりました。云うならば昔の、今で云うなら民芸調の家と云う訳です。倉敷ですか倉敷は民芸の町と言われる。あれがその、一つの保存会が出来て、その時分の建物を保存する。後から文雄さんがあげん言うた時に頂いたあれは、ねぇごつじゃろうかと思うて寝て考えよったて。
だからそういう生き方は、神様が絶対保存して下さるです。間違いなかです。云うならば、夕べの御理解で言うなら、向こうが向こうならこっちもこっちと云った様な生き方では、絶対、真実のおかげになって参りません。だからやっぱり文雄さんが言う様に、ほんとにそれを神様は求めてござるとじゃんね、これは自動車だけの事じゃない、全ての事がそうなんだ。そういう事がですね。
例えばちっとばかりの、頭が良かったりですね、その学問をやらしとると、その学問が邪魔をしてです。法律なら法律と云うものを、例えばほんなら覚えるとです、それはこうしてあぁしてこれだけ、取られると云った様な事がすぐその嘘にでも、大体言うてこうすれば、どれだけ金が取られると、云った様な事だけしか頭が走らん。真実の事もう自分が怪我を、させられなければならないと、自分の車が痛められなければならないと云うのは、向こうのせいじゃあ絶対ないんだと、云う頂き方が真実なんです。
これはどうぞ皆さん、一事が万事にそうなのですからね。いっちょこの真実をね、ほんとに自分もそういう真実な生き方が出来れるおかげを頂く事を願いとなさらなければいけません。だから私は、皆さんにみんなそれを言う訳じゃありません。これは文雄先生のものだと云った様なことは、これはね、そこまでの信心を進めて居らなければ、そういう頂方は出来んです、真実に触れとかないと。
私の生き方も絶対これに徹底して、私は生きてきたと自分でも思うとります。だから真実のおかげが現れて来るのです。不思議なことですよね、信心と云うのは。一生懸命人の事を願いよりゃ、自分の事はおかげ頂くと云うのが信心ですから。けれども初めから私がです、はぁあぁた自分のこつどん願わな、人の事を一生懸命願いなさいと言うたら、ほら合楽に参ると自分の事は願われんち言うごたる風な頂き方をしちゃならんから、まあ願え願えと言うだけのこと。
本当言うたら、もうほんとに人の事が一生懸命、真実のいわゆる真をですね、一心の真を現しての願いにならして頂いた、らもう絶対自分の事なんか願わなくてもおかげ頂くです。いやそれの方が真実なのですから。神様おかげ下さる筈です。山鹿流の陣太鼓じゃないですけれどもね、近くで打って遠くに聞こえる、遠くで打って近くに聞こえる。という事を、ほんとに祈れたら世界中の事が、例えば三代金光様じゃないけどもね、世界総氏子の身の上安全を願いますと仰った。
そりゃ余りな大きい信心ですねと言うた人に対して、大は小を叶えますと仰っとる。だからそれを只、口で言うだけじゃない、心から真実、世界真の平和が願えたらです、もう家庭の平和は絶対です、頂けん筈がないです。ですから私共は、少しずつでも本当な事が願えたり、本当な事が思えたりする稽古をして居るんです。それがちっとばかりなら学問するとです、そういう事を、それが考えられなくなってくる。
そげ遠くで打ったつが、なんの近くで聞こえるかい、学理的にはそういう筈はないと、もう学問で割り切って仕舞うわけですね。だからいわゆる割り切った信心じゃおかげ頂けんとは、それなんです。もうお道の信心はね、なんと言うてもやはり、どんなにそれは古風かも知れませんけれどもです。教祖の生きられ方と云うものを、ほんとに私共は神習わせて頂いて、そういう生活をさせて貰うて。
ほんとにお道の信心させて頂く者だけぐらいは、ちったですね、古風でありましても、文雄さんじゃないですけれども、いわばその倉敷辺りにある、あの明治時代の家がです。お國がそれを保存する、いわゆる希少価値なんです。金光教の信心には、もう合楽だけは、どうでもそういう希少価値のある信心にしていかなければならないと私は思うとります。そんな話があった時でしたが、ほんとにねぇ繁雄さん、あの事故に遭われた時なんかは、自分な仮死状態におられた。
しかもその車、あのその車が繁雄さんをほうからけぇて逃げようとした。いろんな事情で逃げられなくって、まあ繁雄さんの仮死状態であるとを乗せちから、うろうろして居る内にふっと気付かれたのが、自分所の弟さんの店の前じゃった。そこで降りられて、もうそれこそ瀕死の状態に有りながらです、怪我をさせた、しかもあんた無免許の酔っぱらい運転の、その後ろから追突してからですからねぇ。
もうどんこんされんごと向こうが悪かっです。だから警察問題にして呉れるなと向こうから言うから、警察問題にもなさらなかったし。明くる日は、自分が出られたら、向こうの人は怪我して居られんかと言われるのが一番口じゃったげな。向こうの人も、ちっと怪我しておると云うたら、ほんなら、はよお見舞いに行って呉れと言うてから、果物篭を持ってから奥さんに見舞いにやっちゃる。
ほんなごて、あんた馬鹿じゃなかのち言うてから、もう聞いとってから言おうごとある感じがするしょうが。例えば、ほんなら自分が、自転車でもし、行きよらなかったら、この人ももこういう事故を起こさなかったじゃろうという考え方なんですよ。中に入った方があって、まあほんとに馬鹿なごとある話じゃったと、なんかお包が一万円じゃった。そういう例えば生き方をする人があると、私は思うとったけれども。
昨日文雄さんが話を聞きよったらですね。例えばそれだけの繁雄さんの信心も、まぁだ神様足りなかったと言うてござる事実がすぐその後に起こった訳ですよ。と、いうと、それから何日かして息子さんの邦男さんがね、ちょいとした事故を起こしてから、丁度一万円取られたっですけん。貰うただけの金、如何に神様がその一万円でも、取るなと仰ったかという事が分かるでしょうが。
昨日もその話が出ました。夕べその。ほんなこっちゃんね、神様はそうなんだからね、真実とはそれなんだから。だから真実をほんとに求め給うのだ。そりゃ何にも分からない学問のある人、人間的な考え方をる人は分からんのだから、仕方が無いけれど。金光様の御信心をさせて頂く者は信心を立て貫かなきゃならん、真実を。怪我させられた、あれがさせたんじゃあない、させられなければならない元はこちらにあったんだと云う頂き方。そんならどうして、一万円金を貰うことがいるか。
貰っちゃならんのが本当なんだ。そこで今日は皆さん、私が今日はね、皆さんにそれは文雄さんほんなこつ。けどみんなにはそれが当てはまらんと言うて、夕べ話したんですけれど。けれどもみんなです、そこを目指しての信心にならなければ駄目なんです。金光様の御信心ちゃもうも絶対、それが本当ですから、もう絶対その後が本当なおかげになって来るです。私は真が有れば人が助かると仰る程しのは、そういう事だと思う。
真という事は真実という事。そこでですね私は思うんですけれども、私共はそういうほんとに純粋な教祖の信心を頂くという事は、最近言われますけども、教祖の信心の何処を頂くかというたら、教祖の真実を私共頂くことだと思うんです。それを時代に合わせて行く様な、例えばことをしておかげの頂ける、生きたものが頂ける筈が有りません。そういう意味で私は合楽の信心は、非常に希少価値があると思うんです。
だから神様が保存して下さる。神様が特別の御守護を下さる。夕べ、その話もまぁ私の言うことを、もうその侭ほんなことそうどころじゃありませんねと聞いて呉れる人ばっかりですから、話たことでしたけれどね。今度の、大体、幹三郎のは、本当は誰が見たっちゃ、医学で見たら、やっぱ肉腫癌じゃったんだと。ところが、いよいよ手術という時になってから、あれだけ変わってしもうたんだと。
その証拠には、医大が始まってから、そういうものがまだ、この病気がこんな病気はまだないから、学名が付かないと言う。それこそ一夜の内にでも、そんならその肉腫という人が、もう肉腫で助かったという人が無いと言われる程しの恐い病気がです。肉腫が一変して、それこそ金光様のお言葉を借りるなら、無い腫になってしまって居ったという事。私はそれを信ずる。
けどもそれを言うて、本当ですなあと頂ける人は、合楽には沢山な居らん。夕べ私はそれを話したら、そのまあ四、五人の方達だけは、本当にそうですねと言うて、まぁ聞いて下さったから話したんですけれどもね。それが本当なんです。私はそういうおかげが頂けるのが、金光様の御信心。そういうおかげを頂く、例えば肉腫が一夜にして、何の病気じゃら分からない。
しかも悪質ではなくて、癌は癌でも、今日、今おかげを受けて行って居る様にです、まあおかげを頂いて、お医者さんがもう命は別状有りませんと。これは悪質では有りませんでしたと。しかもこの様にここに集まってしまっているのだからこげんすっきりと、それを癌を取り除かれたことはないと言うて喜んで下さった、お医者さんが。そこ辺の一分一厘の間違いの無いこと。
それこそ三福を一福にして大福じゃという事を、何日か前に頂いたんですけどね、いよいよ入院という事が決まってから。もう全ての毒なら毒、悪なら悪を、ここへ集めてしもうて下さった。頭からこう手術せんならん筈で、頭を剃ってしもうとったのがです。もう頭はせんでも済んで、いわゆるここだけをこう手術すると云うことになったんです。ですから、これは私だけが信じる、又、私の言う事を信じて下さる方だけが信じて下されば、まぁいいわけですけれども。
私は神様は嬉しゅうあんなさろう、ほんな事を私は信じて居るからと私は思うです。はぁ、あっちのぼっちゃんな肉腫じゃなかったげな、癌は癌じゃったばってん、悪質のものじゃなかったげなと、まぁ普通では申しますけれども、実は肉腫じゃったばってん。神様が一夜の内にでもそげんして下さった云う頂き方が本当なんです。真実なんです。だから私共は真実をね、ほんとに追求し、真実を分からせて貰うとですね。
おかげがね、真実のおかげが、真実のおかげとして分かるようになって来るんです。その為には、生き方そのものがね、真実にならなければ駄目です。ほんなら、なかなか難しいもので、例えば、今、申しますように、はあ自分の事どん願いなさんなち。人の事さえ願うたら、ちゃんと家の事はおかげ頂くばいと言うなら、ほんなら合楽に参ると、自分の事は願われんげなという事にどんなって来よるとですたい、間違えますから申しませんだけの事ですけれども、実はそうではない。
もう絶対に、自分の事は願わんで、人の事が本気で、一生懸命願われるとするなら、自分の所はちゃあんとおかげを頂く。遠くで打って近くに聞こえるのが、金光様の御信心だ。山鹿流のような陣太鼓の様なもの、金光様の御信心ちゃ。そこで、ほんなら人の事が切実に真を捧げて願えれる、私にならせて頂く稽古を、本気でせにゃいけんという事が分かりますでしょう。
昨日一昨日もそうでした。丁度、青年大会の日に、堤清さんの奥さんが産気づきなさった。電話が掛かってきた。それからちょっと治まったかと思うたら、明くる日から又催しが始まったから、いよいよ入院された。それがどうも、普通と異常なごとあるから、主人としては、堤清さん気が気じゃない。それでも家に居ったっちゃ仕様が無いから、商売に出られた。家では風邪を引いて休んで居られる。
お父さんとお母さんが、ところが病院からこれは、その首に二重も、へその緒が巻いとるから、腹を割って出さなきゃいけんと言われた。だからそりゃちょいと待って下さい、まだ息子も居らんけんでと言うて、もう休んじゃったけれども、その侭お婆ちゃんと仕事着の侭で、お伺いに見えました。それで私が申しました。あのね、お医者さんに掛かったんじゃけん、お医者さんが言わしゃる、もうお医者さんが神様と思うてから、手術すると言いなさるなら手術して貰いなさいと私が言うた。
そしたらもうびっくりされてですね、そんなことせんでよかおかげ頂くと言われると思われたらしいんですよ。ほら私の方でもそうじゃろうが、もうとにかく幹三郎の主治医の先生は、神様と私は思うとると。切りなさるなら切りなさりゃええ、手術しなさるなら手術しなさって、神様からして頂く気になって、とにかくその先生に任せなさいち。したら一時、ここで一生懸命考えなさりよりました二人で。
そしたらそのお母ちゃんの方は助かりましょうかち言よりました。助かるとも絶対。とにかく帰ってみなさいと私は申しました。これはもう、まあ大変ひどい言葉でしたけどもそげん申しました。そしたら二の句がつがれんごとある言い方でしたもんですから、すぐ帰られた。帰られたらすぐ電話が掛かってきた。おかげでひょろっと産まれましたち言うちから、そるきん息子が帰ったなら、すぐお礼に出ますけんち言うてから。
それからまた、あいもの清さんがお母さんを連れてから一緒に、お名前も頂かんならんし、お礼にもと言うて改まってのお礼に出て来られました。そして清さんの話を聞かせて頂いてですたい。もうやはり佐賀の方へ行かれたばってん、気が気じゃないから帰って来よった。そしたらふっと、最近はもう幹三郎ちゃんの事さえお願いすりゃ絶対おかげになるよち、みんなが言うし、親先生もそう言よんなさるから。
本うとに幹三郎ちゃんの事を、こげん車の中で真剣に願うた事は無かった。帰って来よったばってん又引き返してから病院さへ行ってから幹三郎ちゃんをお見舞いに行った。丁度その時間に生まれとる。そしたらあなた首には巻いとらんでどん腹に巻いとったち言うこつ。だから本当にこの任せるという事がね、如何におかげを頂く事の真実かという事やらね、人の事を願ういよりゃおかげ頂くと云う事実がそこにあるでしょうが。
けれどもほんなら言われたからと云うて、人の事が願えるもんじゃあない。改まった上にも改まり、磨いた上にも磨いて、自分の心から本当な神心が出来て参りませんとですね。おかげば頂く為に人の事ば願う云うのじゃいかんのですからね。その辺の所を皆さん一つ分かって頂いて、私が、ここでもう絶対人の事ば願いよりゃ、自分の事は願わんでんおかげ頂くばいと、言えれる信者になって頂きたいと思うのですよ。
文雄さんじゃないけどもです。私の車が、そざされたり、事故に遭うことは、これはもう私のもの、人にはご迷惑かけませんと。それはそれが本当だと信じて居るからそれが出来る。ただし人に迷惑かけた時には、そんな訳にはいかん。信心のこと言いよったら馬鹿んごと言われる。そこで人にさせた時には、どれだけお金が掛かろうが、責任は私が負いますと神様に願えれる様なね、信心。私が真実、本当なことをですね、皆さんに教えて上られる程しの信心に、皆さんなって頂きたい。
それはもう考え方では馬鹿のごとあるかも知れません。けれどもそれは素晴らしいいや教祖の信心はですね、今の時代に生かして行く事なんです。教祖の信心を頂く事になるですからそういう信心が、いかに古風な様でありましても神様がですね、所謂保存して下さる事はもう絶対なことです。明治時代に建った建物の立派な建物をです。お國が保存すると言うですから、希少価値があるからです。私共も希少価値のある信心をさして貰や、もう絶対天地金乃神様の御守護を受けられる事はもう絶対のものなのです。
それをね、真実を追求する、ほんなら繁雄さんの生き方が素晴らしい真実だと思うて居ったけれどもです。文雄さんが話を聞かせて頂くと、云うなら繁雄さんにもっともっとほんと、もっと素晴らしい真実を求めて居られたという事が、繁雄さんの例で分かるでしょうが。ですから皆さん、本当にまぁ、なんか馬鹿んごとあるですね、遠くで打って近くで聞こえるなんて。けれどもそれが真実ですから。
そういう真実な考え方はですね、例えば学問があっても学問をいっぺん置いときませんと、学問をいっぺん置きませんとおかげの方へ邪魔になって来ます。だから言うならば無学同様の私、学問はどれだけしても良いけれども、こと神様の事になり自分の生き方に於いてはです、学問も度外視した生き方真実の生き方をです、させて頂く事を稽古さして頂くのが、お道の信心であると云う思い込みをね、皆さん作って頂きたいと思いますね。
どうぞ。